茅ヶ崎三線クラブ稽古場外伝

矢島三線工房・矢島敏が主宰する「茅ヶ崎三線クラブ」のお稽古、イベント等を綴ったブログです。


場所:湘南台公民館 時間:7時より
参加:たかしさん のぶちゃん おづさん


ミュージシャンと、そうでない人が同じ音を聴いても、それぞれの耳に聴こえている情報量は全く違います。簡単な例で言えば、沖縄民謡を唄う人生のなかで、その達成度につれて、同じ音源でも聴こえてくる音は違います。


僕の教師としての役目は、その人の技術とその人の目指すべき目標の間を埋めていく作業だと思います。この目標設定は凄く微妙で繊細なものです。多すぎても少なすぎてもいけない。一番やっかいなのは、僕の設定した目標が相手には見えないということです。


ちなみに、目標が見えた時点(その技術との距離を具体的に認知した時点)というのは、目標の半分は達成されているんですね。あとは自分の肉体をつかって、それを再現すればいいわけですから。


このときの目標の据え方ですが、これがいきなりせい小先生の早弾きだったり、大城美佐子さんの歌だったりしても、あまり意味がないんですね。違うことがわかっても、それを進む道のりがわからなければ、それは距離の認知にはならないわけです。


CDを始めとする、音情報は巷に氾濫し、これがノイズとなって、行くべき道がかすんでいる場合が多々あります。
まずは耳を澄まして、自分の音を聴いてください。悪いことばかりが耳に入るようだったら、それは音の洪水の害です。美佐子さんの唄と自分の唄をくらべるからいけない。


民謡の役割が後世に今ある文化を伝えることだとしたら、それはそれでやればいい。ただ、これは教師の役目です。
音楽的な喜びの追求であれば、そこに明日を持ち出しすぎると、今日がもったいないんです。今日、唄えることに喜びを見出せなければ、それは情報の害ですから要注意です。


文化としての民謡、それと音楽の追求。そこには一見すると矛盾が見えます。一方は自分というものを極力押さえる。また一方は自分の追及。


でも、もっと離れた大きな視点で見れば、面白いくないもの、形骸化されてしまうものが残るはずがない。いまの沖縄民謡を支えてきた先輩方は沖縄民謡という大きな流れのなかで”自分の追及”をやってきたに違いないのです。


こういう書き方をするとハードで、また”がんばれ”と言ってるニュアンスですが、あえて赤犬子のメンバーには”耳を澄まして静かな心で自分の音を聴いてください”と言いたい。


やらなければいけないことなど無いのです。やりたいことがあれば良し。それだけです。


いまある悩みが懐かしく思える日が必ず来ます。